今日は久しぶりにユックリ日記がてらブログを書こうと思った。
昨日の朝に東京から京都に戻り一日が経った。
生活という生活はしてなかったが、自分の中では今までで一番関東にいる滞在時間が長かったと思う。
NYに行った時より何か胸騒ぎというか変な緊張が東京からは感じる。でも自分の身を置いてしまえばその胸騒ぎも消えた。基本的どこへ行っても自分がどうなのかだし、特に変わらなくなるもんだ。周りの環境によって自分の心情や感覚の変化を楽しむのも新鮮だけど、それにすがってしまえば自分から何も生まれなくなる事がオチだ。
今回久しぶりに違う環境に身をおき自分が感じる事、湧き出るものを意識したが変化はなく特に今まで以上の何かが出てきたわけでもない。当然滞在日数が短すぎるという事もあるが、それより自分の中にあるものがいつも変わらない日常の中に常にあるという事も再認識できた。
最近はとても早く情報が拡散でき共有ができる世界だ。それはとても便利で色んな事に都合がよく、今では当たり前の事だ。でも僕は全ての事において都合がいいとは思わない。この事については本当に人それぞれの意見がある。僕は情報をどんどん共有している人達の事も特に悪く思わないし、断固否定する人についても何も思わない。
ただ、現在自分が生きていいて僕はどう思ってどうしたいかだけを考える。
だから拡散共有する場所では個人的な意見を言おうと思わなくなってきた、それでこのブログを始めたのもある。
このブログを見た人がどう思うかもそれぞれだし、肯定否定するのもその人次第だと思う。
最近あるオランダ人と日本人が個人制作しているドキュメンタリー映画のインタビューをうけて興味深い質問があった。
「よく楽しそうにしている人がいますよね。その中であなたが嬉しく感じたり、もしくはそれを見てむかついたりする事はありますか? またその違いは何ですか?」
むかつきまではいかないが、嬉しくは思わない事はある。僕の中でその違いはその楽しくしている人が自分にひたって楽しんでいるか、僕にうったえかけてる楽しさの違いかと最初は思った。色んな事にも言えるが、自分が要求してないのにうったえかけるプレッシャーには反発する意識が生まれるのは普通だと思う。逆にそちらはそっちで、こっちはこっち、といった様に多少ドライなくらいが丁度いいと思う。でもここがトリッキーなとこで何もなかったらなかったで要求意識が生まれる事もある。人間はとても自分勝手な生き物だ。そこで思った事は自分のする行為に対して見返りを持たない、要求しない。そしてその行為は自分がしたいからする。その意識ででる行為は相手にとても自由な空間と色んな事を思えるユトリを与えるような気がする。
最初のインタビューの質問にもどるが、楽しそうにしている人も自分にひたって楽しいのか見せびらかす楽しさなのか本当のところは分からない。結局受けとる側がどうなのかが一番の焦点だという事に至った。
という事は、結局自分次第….。
この事については毎日勉強させられるテーマの一つだ。たまにイライラする時、セカセカする時いつも対する物や事に反発してしまうが結局それは自分に理由がある。分かってるけど分からない…というより分かろうとできない。
でも気持に余裕があればそんな反発はうまれない。一つの鍵は気持にユトリを持つ事。
花は気持にユトリを与える。これはカナダに住んでいて色んな事で精神的にまいっている時によく会うポルトガル人のお婆ちゃんに教えられた事だ。自然の力はよくできたものだ。
イライラしたり、沈む事は当たり前でとても自然な事だ。でもそれも自分自身で無くす事も自然にできるし、自然(ここでは当たり前で平凡な時間や事)からも補う事ができる。
色々話したけどインタビューの質問を通して改めて考えたのは自分の描く作品の事でうったえかけ過ぎない、自由でユトリをあたえるモノ。これは僕がモノクロの作品を探求する中でとても重要なテーマだ。
その自由でユトリを与えるモノは、時には刺々しく、時には緩やである。
また明日からその花の様な自由でユトリを与えるような作品を描けるように頑張ろうと思う今である。